. 恋愛について語るには経験が少なすぎるとは自覚している。しかし、経験豊富な人は恋愛を論じるにはそれに浸かりきってしまっているために論理的整合性がまるでない。そして正確に論じようとすればするだけ恋愛そのものがバカバカしいものに映り、空しくなってしまいかねない。冷めた瞳でそれを正当だと主張する人がいる。熱い眼差しでそれを全否定する人もいる。どちらが正しくてどちらが間違っているのか。本論はそれに対し白黒つけることはせずに、その両者とも救済しようと試みるものである。
率直にいって愛とはすなわち幻想であり、迷妄であり、蜃気楼である。つまり存在などしない。これを心に留めておかなければ、むざむざと愛のために生き、愛のために死ぬという風車を怪物だと思い込み戦いを挑んだドン・キホーテさながらの滑稽な人生を歩むことになる。愛が幻想であるならば、恋愛なぞそもそもするだけ野暮というやつなのだろうか。愛は確かに存在しない、しかし数字の0が「ある」ように存在しないということは「ある」ということなのだ。つまり愛とは二次的概念である。そして恋愛とはオアシスからバケツで水を汲み砂漠に川をつくろうとするようなもので、まったくの無益な行為である。ではなぜ人は恋愛をするのだろうか。それは孤独感に打ち勝てないからである。孤独とは生きているうえで一番死に近い状態だから、無条件で恐ろしい。「人は一人では生きていけない」と言われる所以である。そしてそんなときに誰かがそっと抱きしめるなり手をつなぐなりしてくれると、言いようのない多幸感に満たされる。このときこそ愛を感じる瞬間である。前述したように愛とは幻想であるから、その多幸感はすぐになくなってしまう。つまりあれは幻想だったのだと気づくのである。それでもそのときのぬくもりを忘れられず、追い求めてしまう。この場合の愛を感じた側の感情が恋であり、愛を与える行為が恋愛である。しかし、くどいほどいうように、愛とは存在しない。つまり恋愛とはどこにもないものを与えるという行為であり、だからこそ恋人と好きだと囁きあっても、手をつないでも、キスをしても、セックスをしても、すぐに不安になり、疑心暗鬼になるのである。そしてお互い会うたびにひたすらそれを繰り返し、確認をし、やはりすぐに不安になるのである。
このように恋愛とは無益な行いであって、するだけ無駄である。バカを見るのは自分なのだから。しかし、だからといってしないというのは決して正しい判断だとはいえない。無益、するだけ無駄、そんなことを自分のためにしてくれる、あるいは相手のためにしてあげたい、自分がバカを見てでもそれをしてくれる、してあげたいと思える相手とはどんなに素晴らしい人なのだろう! 愛とは幻想であって、手に入れられるものではなく与えられたつもりになっても(前述の多幸感に満たされた状態になったとしても)すぐに渇き、不安になってしまう。それならば、と自分のために果てしなく無益な行為をし続けてくれる、相手のためにし続けてあげたい、そんな思いのなんと美しいことだろう!
人間とは社会的な動物であって、まったくの一人では生きていけない。どうしても人付き合いをしなければならない。魑魅魍魎の跳梁跋扈する阿鼻叫喚のなかで、恋愛をしていれば、世界全部が毒だなんて思わずにすむ。しかし世界のほとんどは毒であることに変わりはないので、身を守るには個人主義を通すしかない。ビジネスライクとはつまりそういうことである。個人主義ですべてのものから一定の距離を置けば、煩わしいことも少なくなり、心は平常を維持できる。そうすれば自分自身の向上に励むことができる。その上で愛とは幻想であると認識をし、人生のスパイスとして恋愛をするならば、その行為は限りなく無益に近いけれども全くの無駄ではないのだろう。
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