以前、個人主義的恋愛論というテキストを書いた。今回はその改訂、もしくは訂正と言ってもいい。つまり自分のテキストに対しての反論を試みようというものだ。
さて、「個人主義的恋愛論」では愛は幻想であって追い求めるだけ無駄だと書いた。しかしどうだろうか。幻想を追い求めることのどこが無駄であろうか。そもそもこの世の中だって作り物なのだから、その意味では虚構という表現で言い表すこともできる。
その虚構の世の中で、幻想である愛を求める――つまり夢の中で夢を見るようなものであるが、それがすなわちこの世界なのだ。ゲーテ『ファウスト』のメフィストフェレスは「生じてきたいっさいのものは、滅びてさしつかえのないものです。それを考えれば、何も生じてこないほうがましだ」と言っている。僕もその観点で幻想を追うことは無駄であると書いた。しかし、なにも生じないわけにはいかない。それは生きんとする意志がある限り。その意志というものは盲目的であってそれゆえ誰にも止めることはできない。そして虚構と呼んだ世界は、その意思が発した表象である。つまり、意思とは映写機で表象はスクリーンとたとえられる。世界はたったこれだけのことなのだから、生きる目的などそもそも存在はせず、ただ盲目的に生きんとする意志の恣(ほしいまま)に世界は動いている。
チャールズ・チャップリンは「なんの為に人生に意味なんて求めるんだ?人生は意味じゃない、願望だ」と言っていたが、まさにその通りで、要は生まれ落ちた以上は「自分がどうしたいのか」が大切になってくる。同じように、恋愛においても恋愛をする意味ではなく、したいかどうかが大切であって、「この人ともっと一緒に居たい」という願望こそが恋であるだろう。
そもそも人生に意味なんてない。だからこそその意味を作り上げる。なければ作ればいい。そうして文明は発達してきた。そして、作り上げるのに必要なものは情熱だ。
情熱的、あくまで情熱的に、なにかを失って茫然とするのではなく「見晴らしがよくなった」くらいに考え、さらに、またなにかを作り上げることができるチャンスだと思うこと。それこそが情熱的ペシミズムである。
「個人主義恋愛論」は先のメフィストフェレスの言葉「生じてきたいっさいのものは、滅びてさしつかえのないものです。それを考えれば、何も生じてこないほうがましだ」に似た考え方だが、それは「失うことが怖いから、それならば最初から要らない」ということにほかならない。これは情熱的だとは言えない。かねてから恋愛を謳歌している彼らを見ていると「精神的に貧弱で、下等な人間であればあるほど、それほど社交的だということが知れる」というショーペンハウアーの言葉を思い出させるのだが、 だからといって恋愛そのものを否定しているとは言えない。恋愛とはむしろ孤独に打ち克たないと成就しないものだから。
失う恐ろしさを知っていながら、彼らはより楽しい人生を歩もうという願望を叶えようとしているのだ。だから、独り身で自由奔放な生活を送っている人よりも、孤独の恐ろしさを知っているし、なによりその恐怖感さえもを背負ってパートナーと過ごしているのだ。
ともすれば、個人主義的な恋愛とはとどのつまり自分が傷つきたくないからの一心で、精一杯の予防線を張っているにすぎない、実に愚かしいことだと言えよう。
失うものがないという人間は強いようで、実際は弱者である。失うものを背負って、守り抜いてこそ人生は豊かになる。「船というのは、荷物をたくさん積んでいないと、不安定でうまく進めない。同じように人生も、心配や苦痛、苦労を背負っている方がうまく進める」このショーペンハウアーの言葉がそれを裏付けている。
幾あまたの苦労をしてこそ人生は面白い。なにかを失っても、そこからまた作り上げていく。作り上げることが人生においては必要なことだということは先に書いたが、それを恋人同士で、一人ではなく二人で作り上げる。それが恋愛というものだろう。人一人の力ではたかが知れている。しかし愛する人と共に作り上げるのならば……その作業こそが愛ではないだろうか。
つまり恋愛とは「この人と一緒に築き上げていきたい」という願望にほかならない。その情熱たるや、あまつさえときには人を殺すほどの情熱である。
恋愛の成就とは孤独に打ち克った証とも言えよう。なので先日書いた「個人主義的恋愛論」とは全く反対の結論に行き着いた。しかし、恋愛よりも面白いことはほかにもあるので、恋愛至上主義を手放しで肯定はできないことを補足として述べ、終わりたいと思う。